反抗期は幼少期の第一反抗期と、思春期の第二反抗期があると言われています。
娘も、幼稚園のときと中学生のとき(高校生になった今もまだ少しありますが)にありました。
ただし、娘の場合は第二反抗期が不登校と重なったため、本人も私も余計にきつかったのだと思います。
前にも書きましたが、娘は幼稚園年少から小学3年生の終わりまで海外で育ちました。
(【実は・・・帰国子女です】)
なので、第一反抗期は海外にいるときでした。
幼稚園は現地の幼稚園に通っていました。最初は言葉の壁があり登園をしぶることもありましたが、半年くらいで言葉も理解できるようになり、元気に登園するようになりました。
現地の幼稚園はお昼で終わって帰ってきます。
私たち日本人妻たちは主人たちの会社から車の運転を禁止されていましたので、幼稚園への送迎は現地に住む日本人の方にお願いしていました。
車から降りて自宅に帰るなり、どこかに遊びに行きたい、誰かと遊びたいといいます。
上の子は小学生でしたので日本人学校に通っており、帰宅は夕方4時半ごろなので遊び相手がいないのです。
私たちが暮らしていた場所は国全体の治安が悪く、住んでいたマンションの敷地入り口は施錠され、常時、銃を持った警備員が待機しているようなところでした。
ですので、日本のように近くの公園に歩いて遊びに行くなんてことはできません。
マンションの一階にはプールや小さなサッカーコートのようなものと少し遊具のあるプレイスペースはありますが、昼間はほとんど誰も遊んでいません。
車の運転ができないので、どこかに行こうと思うとタクシーを呼ぶしかありません。
日本人の友達のところも、たまにならいいのですが、毎日となるとさすがに遊びにいくわけにもいかず、長女が帰宅するまでどうやって時間をつぶすかを考えるのが、正直私のストレスでもありました。
遊びに行きたいけど行けない娘と、どうやって時間をつぶすか考えるのことに疲れた私と、お互いストレスを抱えていたと思います。
よくケンカをしていました。
だいたいの発端は、私の言うことを聞かない娘に私が怒り、それに娘がますます反発する、といった感じです。
今考えると、娘は私の所有物ではないのだから、私の思いどおりにしようと思った私が悪いのです。きちんと向き合って、何を求めているのかをきちんと聞く姿勢がありませんでした。また、私が思っていることを伝えるのも、理由も言わずに一方的にこうしなさいと押し付けていました。
そんな私に耐えかねた娘は、幼稚園用の小さなキャリーケースに荷物をつめて
「もう、わたしは家出するっ!」
と、出ていったことが何度かあります。
マンションの部屋には玄関と別に裏口があり、キッチンにある裏口のドアを出ると、
すぐ目の前にエレベーターがありました。
私たちが住んでいたのは10階でした。
キッチンのドアから勢いよく飛びだす娘をそのまま見送ります。
しばらくすると
「ママ-っ!」
と泣き声が聞こえてきます。
娘はエレベーターが怖くて一人で乗ることができないのです。
エレベーターの前でキャリーケースをわきに泣きじゃくっている娘を、そのまま家に連れて帰る・・・
いつも、このパターンでした。
でも、日本だったら本当に家出していたかもしれませんね。
本当にひどいことをしていました。
娘が日本人学校に入学してからは、登下校が長女と一緒なので、このようなことはなくなりました。
さて、思春期の第二反抗期×不登校です。
高校生になった今も、たまに「なにっ!」「わかったって!」など乱暴な言葉を吐くときがありますが、一番ひどかったのは中2から中3にかけてでした。
反抗期だけでなく、不登校の自分に対する苛立ちも加わり、それをぶつける相手が私しかいなくて、娘自身も苦しかったと思います。
暴言はもちろんですが、ワーワー泣きわめきながらリビングの椅子を投げ倒したり、テーブルの上のものを床に投げ散らかしたりすることが何度もありました。
中2の6月のある朝、学校の眼科検診の結果がよくなかったので、目にかかった前髪がよくないのではと思った私が娘に
「前髪あげたほうがいいんじゃない?」
と言いました。
その一言に娘が切れてしまい
「なんで髪型を決められないといけないわけ!そんなの自由じゃん!」
と叫びました。
それにカチンときた私は
「誰がメガネ代、コンタクト代払うの!」
と言ってしまいました。
それを聞いた娘はすごい勢いで洗面所に行き、自分で前髪をバッサリ切って出てきました。
「これでいいんでしょ!」
と泣きながら2階の部屋へ駆け上がりました。
しばらくすると2階からガタガタと大きな音が聞こえてきました。
あわてて娘の部屋に行くと、床には粉々に割れたグラスの破片が散らばり、ぬいぐるみや本なども散乱しており、その中で娘はワーワー泣いていました。
グラスを割ったのは初めてだったので、私も心配になり主人にメールをしたところ、仕事を抜けて帰宅してくれました。主人が帰ってきたのに気づいた娘は2階のトイレに閉じこもり、いくら声をかけても出てきませんでした。
結局、主人は仕事に戻り、私は娘の部屋の片づけをしてから昼食の準備をして声をかけると下りてきて、普通にお昼を食べました。
それから 一週間後。また朝から泣きわめき
「助けてよ!」
という娘に耐えかねた私が
「だったらどうしてほしいか言ってよ!」
と言ってしまいました。
自分でもどうしたいのか、どうしてほしいのかわからないから暴れている娘に対して。
すると娘は怒って2階の部屋へ行ったかと思うとすぐにおりてきて食器棚の前に行き、
「割っていい?」
と聞きます。
「いいよ」
と答えると、食器棚の中から、ちゃんといらないようなグラスを選んで床にたたきつけ、その上からつまようじをまき散らしました。
そして、数日前に女子会しようとダイニングテーブルの周りを飾り付けていた風船をかたっぱしから割り始めたのです。
私はというと、だまって見ぬふりしてその場にいることしかできませんでした。
「これで少しでも娘のストレスが発散できるならいいや」
そう思っていました。
その後、私は学校にスクールカウンセラーの先生に会う約束があり、部屋の片付けもせずにでかけました。行く前に娘には行ってきても大丈夫かたずねましたが、大丈夫との返事でした。
しかし、家を出てすぐに携帯に娘から電話があり泣いていました。すぐに家に戻るとガラスの破片が指に刺さったと言います。でも、自分で刺したのだと思いました。
そこで、気分転換のために少し離れたホームセンターに一緒に行きました。そこでは機嫌よく買い物をし、夕方、自宅を訪ねてくださった担任の先生とは話をすることができました。
このころ娘がいつも口にしていた言葉が
「助けて」
「無理」
「死にたい」
でした。
これほどまでに苦しんでいる娘を助ける術もわからず、私も苦しい毎日を送っていました。
今思うと、一番ひどかった時期、私は仕事をしていませんでした。
なので、私自身が娘から離れて自分の時間を持つことがあまりできずに、ストレスがたまり、それが娘を受け入れられない精神状態につながっていたかもしれません。
家にいて、テレビを観たりネットをしたりして過ごしている我が子を見ていると、ついイライラして「学校行ったら」とか「勉強したら」などと言ってしまいます。
このとき一番大切なことは、そのままの娘を受け入れ【共感】することだと思います。
ただただ耳を傾け、「うんうん」と優しくうなづき、時には子供の言葉をオウム返しで返してあげる。
このときに、どうにかしてあげようと思うと、「こうしたら」「ああしたら」と余計なことを言ってしまいがちです。なので、ただただ【共感】することを意識して話を聞くのです。
こんなことを書いていますが、私は今でも、高校生になった娘から注意されます。
「だからさ、そこは『そうだね』だけでいいんだって。余計な事言って否定するのやめてよ。」
まだまだ未熟な母親です。